2012.7.3
東日本大震災アンケート

調査の概要

□ 調査の目的
平成23年3月11日の東日本大震災後に、会員の多くが十分な治療ができないなどの困難を抱えました。本会は「震災後の状況と今後の活動期待を明らかにすること」を目的にアンケート調査を実施しました。

<本会員アンケート調査結果報告は、以下の4項目です>

@ 「会員状況」と「乾癬と治療の実態」
A 震災後の「治療状況」と「患部の変化」
B 「入会理由」と「今後の活動期待」
C 自由記入:「震災後から現在までの治療に困ったこと」、「震災の体験談」

□ 調査方法・結果概要
1)調査期間:平成23年8月17日〜8月31日(一部:9月7日)
2)調査対象者と方法:全患者会員(40名:男性28名、女性12名)/悉皆調査
3)配布・回収方法:配布郵送、回収郵送(FAX、メール可/一部は電話での聞き取り)
4)回答者数:37名(男性26名、女性11名)
5)回収率:92.5%(男性92.9%、女性91.7%)
 アンケート調査の結果は→こちら(pdf)

 
2011.5.15
緊急報告 東日本大震災被災地を訪れて
 
 日本乾癬患者連合会 
  会長 佐々木憲夫
 
  2011年3月11日午後2時46分。東北地方太平洋側をマグニチュード9.0の巨大地震が襲った。その直後の大津波によって沿岸地方は壊滅し多くの人々の生命と一切の物が巻き込まれ押し流された。死者・行方不明者2万5000人。避難者数57万人。
こうした中、被災地の乾癬患者はどうしているかと心配しながらも「宮城かんせんの会」の役員の方々とも、全てのライフラインのストップの為連絡がとれず、その確認もできない状況が暫く続いた。
一方日本乾癬患者連合会のホームページにおいて「災害掲示板」を立ち上げ、被災地との連絡や励ましを展開していった。
安否確認と、この掲示板の存在を広く被災地の乾癬患者に告知すべく4月30日、直接現地へと向かった。
   
4月30日 
   市民456人が亡くなった塩竃市在住ので「宮城かんせんの会」副会長を訪問したが、お会いすることはできなかった。初めて実際に見た津波の巨大な破壊は息を飲むものであった。夜、副会長へメール添付で塩竃市民8000人が避難している各避難所へポスターの掲示を依頼し快諾を得た。

5月1日 
   1000人が死亡、900人以上の行方不明という、石巻の長面(ながつら)地区、釜谷地区へ。この地域では、従姉妹2人が暮らしていた地域である。津波により、一世帯は、コンクリートの土台だけが残り、周りには何も残っていない風景があった。もう一人の従姉妹宅は、かろうじて家の形はあったが、津波によって家の中に砂が入り、家財道具の殆どが流されていた。
ここでは、自衛隊の遺体捜索が静寂の中で黙々と進んでおり、あらゆる物が流された中にポツンと「釜谷診療所」の骨組みだけが残っていた。多くの患者や先生が亡くなったと言われている。がれきの整理や遺体捜索に重機は使われていないため、静けさが、寂しさを募らせるように感じた。
   児童108人のうち72人、先生11人のうち10名が被災した大川小学校の横を通る。地震でバラバラとガラスが割れるの中、子ども達は校庭に集まり、新北上大橋たもとに向かった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの道を避難の行進を。しかし既に写真右側土手の陰にある大河・北上川を静かにのぼった津波は、一気に列の正面(橋の方)から子ども達を襲った。(写真右奥が新北上大橋。子ども達はこの道でなく山側の道を進んだ)この学校は津波浸水想定地域の範囲外。海まで4q。
石巻市の避難所へ乾癬患者へのポスターの貼付を依頼するため市役所支所を訪問。対応頂いた職員の方に「乾癬という皮膚の病気がありまして…」とその主旨を説明始めると「乾癬は知っています」との返事。そして「私が乾癬です」と前髪を上げると好発部位の生え際に見慣れた皮疹が。「他に患者を知りませんか」「弟以外には知りません」といった驚くべき会話が交わされました。そして近隣の避難所へもポスターを配布して頂き「足りなくなったらコピーしていいですか」という連帯の意思表示はとても嬉しかった。

    
 
5月2日 
   地震と津波の被害に加えて放射能汚染というとてつもなく恐ろしい環境におかれている、南福島さとう皮ふ科の佐藤守弘先生を見舞う。先生からは直後に「建物、人的被害はありませんでしたが、室内はめちゃくちゃで、断水が続いています。復旧するまで数日かかりそうです」、また3月末には「ガソリン不足と原発問題が厄介です。医者も含めて、福島から脱出している人が多いです」とのメールを頂いていた。お元気そうだが先生の身内の方がこの震災で亡くなり、いわき市の実家の流失などを、すごい数の外来患者を待たせてお話ししてくださった。
金子先生、山本先生ともお会いしたかったが、混乱しているとの情報を得たため取りやめた。
   そして、ここまで来たからには世界を震撼させている「福島第一原発」を目指すこととする。阻止線があって放射能汚染区域までは行く事は出来ないであろうとの勝手な推測のもと、カーナビの目的地を原発に設定してレンタカーを走らせる。
 完全武装の警察官の阻止線は浪江町津島でした。後で調べたら、ここは原発から24q、この日の放射線量は25.3μSv/h。これは規制限界レベルの40倍。
   別ルートで戻る途中、地震で壊れた家屋やお店や郵便局の悲しい張り紙が目に付いた。避難されて誰もいなくなった集落。それまでの普通の暮らしが、突然断たれてしまうことは、異常な風景。人々の不安、苦しみを残された家から感じ、一方で、満開の桜と抜けるような青空が印象的だった。
 途中、川俣町の役場、伊達市役所の災害対策本部へ「乾癬患者の救済」をお願いし、仙台にもどる。将監皮膚科の渡部先生は、「長期の断水と、薬が入らないのには本当に困りました」とのお話しを聞く。
夜は仙台市内で宮城の会のweb担当の方と梯の会・岡田会長と合流し、地震発生当時の体験などを聞くことができた。
   
5月3日 
   「宮城かんせんの会」幹事のSさんと歓談。甚大な被害でガス・水道・電気の全てが止まった若林区に住む彼との再会は本当に嬉しかった。彼は、震災直後から仙台市内の様子をレポートしてくれた。
夜は「宮城かんせんの会」幹事のKさんと。救急救命士である彼が不眠不休で職務に向かう真摯な姿に感銘した。この震災での体験はいかなる小説より奇であると感じる。
   
最後に
   避難所へポスターの掲示を依頼してきたが、どこでも快く受け入れてくれた。
 災害対策本部へ行くと、その管内の全て避難所へ掲示していただけることも分かった。今現在、ポスターを見たという方からの電話連絡は無いが、被災した方々のそばに、ポスターが貼られ、患者仲間の思いがそこにあることに意義を見いだしたい。また現地からのHPへのアクセスも増えた。「宮城かんせんの会」の仲間たちと、元気に再会できたことにほっとした。とにかく無事でいてくれた。しかし40名の会員の安否は確認できていない。あの日、職場から歩いて帰ったこと、その後、ライフラインが止まり、食品や水の調達に並んだこと、入浴できずに、乾癬が悪化したことなど、大変だったにも関わらず、もっと大変な人たちがいっぱいいるからと言う。力になりたいと思いながら、ただ、話しを聞くことしかできなかった。
 この度の大震災により、私の従姉妹とその孫の小学生二人、宮城の会長の父上をはじめ、亡くなられた2万5000人の犠牲者の皆さまに哀悼の意を捧げます。
世は復興、復旧と言われておりますが、被災地の人々はまだまだ辛苦の日々の只中です。
   
被災地ポスターPDF
   謹んでお悔やみ申し上げます